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次の日、俺は今だスッキリしない気持ちのまま、店での仕事に勤しんでいた。
智美さんの様子は特に変わった事はなかった。
しかし、何かが変だった。
俺が意識しすぎていただけだったのかもしれないが、いつもの笑顔がどこか嘘っぽく見えた。
夕方になり、フラリと東条さんと宮岸さんがやってきた。
俺はすぐ席に駆け寄り、
「この前はごちそうさまでした」
と、東条さんにお礼を言いにいった。
東条さんはいつもの色っぽい笑顔で、
「何かしこまってるの?僕は私の料理を食べたんだから、もう他人じゃないのよ?」
と冗談を言った。
すると智美さんが奥からコーヒーを持ってやってきた。
テーブルにコーヒーを置き、なぜか店のドアの札を「準備中」にした。
そして再び戻ってきた。
「○○(東条さん)、ちょっとアンタに言っておきたい事があるの。いい…?」
智美さんは見た事もないような冷たい顔をしていた。
「ちょっと…何よ?」
東条さんも、智美さんのただならぬ雰囲気を感じとったのか、かなり動揺しているようだった。
「この前、一緒に食事した時の事だけど、どうして○○君を帰してくれなかったの?」
やはり恐れていた事態だった…。
しかし、智美さんがいちいち気にする事でもないような気がする。
「いや、帰してって…。別に時間遅かったから、朝までいてもらっただけじゃない。」
「どうして?アンタ車乗れるんだし、彼が起きてから送ってあげたらよかったんじゃないの…?」
「ちょっと…智美なに言ってんの?別にアンタがああだこうだ言う事じゃないでしょ?」
「あのね、アンタにはわからないかもしれないけど、私は○○君を雇ってる限り、責任があるのよ!ましてやこの子、未成年なのよ?」
智美さんは明らかに怒っていた…。
「何よ、それ。アンタ、○○君の保護者にでもなったつもり?」
「そうね。そう思ってくれてもいいわ。」
「ぶさけた事言ってんじゃないわよ!この子は別にアンタの物でもなんでもないのよ?何お姉ちゃんみたいな気分になってんの?馬鹿みたい!」
「○○!あなたそれでも大人なの?あきれた…そんな事言うなんて…」
「アンタに言われたくないわよ!男とのいざこざ一つ解決できないくせして!」
東条さんのその一言で智美さんが固まった…。
「ちょっと…それは関係ないでしょ…?」
先程まで意気込んでいた智美さんが一瞬にして動揺し始めた。
「ふふっ、何うろたえてんの?なんなら○○君に話してあげようか?実はアンタが一番ガキっぽい悩み抱えてるって事」
「ちょっと…やめなさいよ…。今その事は関係ないでしょ…?」
智美さんの身体が小刻みに震えていた。
その瞬間、ずっと黙って座っていた宮岸さんがいきなり立ち上がった。
「二人ともいい加減にしなさい!!○○君がいる前でよくこんな事できるわね!!アンタ達二人ともがガキよ!二人してギャーギャー喚きちらして!」
宮岸さんは二人にも勝るぐらいの怒声を吐き、東条さんと智美さんを一瞬にして黙らせた。
「○○君、行こう。こんな馬鹿二人の話なんて聞かなくていいわ!」
そう言って宮岸さんは俺の手を強引に引っ張り、俺は引きずられるように店を出た。
宮岸さんは俺に車に乗るよう言い、俺は窓から店の中を気にしつつ、宮岸さんの車に乗り込んだ。
宮岸さんはすごい怒気を含んだ表情で、あてもなく車を走らせた。
俺はただ隣で、言葉を発する事なく状況の整理に追われていた…。
宮岸さんは15分ほど走った所にあったショッピングモールの駐車場で車を止めた。
「大丈夫…?」
宮岸さんは先程とは別人のような優しい口調で俺に言った。
「正直…何がなんだか、わからないです…。でも、俺が原因なのはわかります…」
「こらこら、○○君は何も悪くないわよ。あの二人が馬鹿なだけよ。いい歳した大人の女が子供みたいに…ほんと呆れた…。」
俺は何も言えなくなってしまった。
ただ、じっと足元ばかり見ていた。
「あの二人はね、昔からずっとあぁなのよ…」
宮岸さんが静かな口調で語り始めた。
「一緒にいたらわかると思うけど、智美は昔からすごく真面目だったの。曲がった事が嫌いで、頑固でね…。おまけにしつけに厳しい家庭で育ったらしくて、やけに規則とかマナーにうるさい子だったよ。」
俺は宮岸さんの話に聞き入っていた。
「それに比べて○○(東条さん)は…なんていうか自由奔放でおおざっぱで、とにかく遊び好きでね…。でも智美と違って意固地にならないのがいいトコだったかな」
「とにかく、あの二人は全く正反対なのね。だからお互い惹かれあってもいた。でもぶつかる事も多かった…」
いつもおちゃらけている宮岸さんはそこにはいなかった。
車の窓から少し冷たい風が入ってきて、宮岸さんのショートヘアを少し揺らした。
「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、この人も東条さんや智美さんに負けないくらい綺麗だった。
あの二人にはない、「働く女性」のテイストを持った人だった。
「でもね、あんなにお互いの感情剥き出しに言い合うのは、今までなかったかもしれないわね。」
「そうなんですか?」
俺は少し驚いてしまった。
「今思えば…ね。私思うんだけど、○○は○○君の事、マジで自分の物にしたいって思ってるかもしれないわね。あの子の独占欲は半端じゃないからね…。あの夜、なんかあったんでしょ?」
俺はしばらく考えたが、無言で頷いた。
「大体予想はつくわ。で、○○君の事だから、拒んで結局なんもなかったってトコじゃない?」
再び俺は頷いた。
「やっぱり…。私たちがね、○○君を気に入ってるのはそこなのよ。多分、自分自身じゃふがいないとか思ってると思うけど、そうじゃないのよ。普通、男って20歳やそこらになってきたらもうどうしようもなくなるじゃない。でも…君はなんか違う」
「なんかね、私達が中学とか高校だった頃に好きだった男の子がそのままいる…みたいな…」
ここまで良く言われてバチが当たらないかなと思った。
しかし、その時はただ宮岸さんの言葉に聞き入るだけだった。
「でも…智美にとっては違うみたいね。ほんとに弟みたいに思ってるんだと思う。あの子一人娘だから、きっと憧れてたんじゃないかな。」
弟みたいに思ってる…。
その言葉が俺に重くのしかかってきた。
「まぁ、簡単に言っちゃえば、さっきのやりとりは○○君の取り合いなわけよ!このモテモテ野郎め!」
そう言って宮岸さんが俺の頭を指でツンッとつついた。
「もう…からかわないでくださいよぉ…」
そう言うと、宮岸さんはいつものように笑った。
「まぁ、安心しなさい。あの二人、あぁ見えて根に持つ方じゃないから、熱が冷めたらまた元通りになるよ。私もちゃんと仲取り持つし。安心してね。」
宮岸さんが俺の肩をポンッとたたいて言った。
「あの…俺、この前みなさんが楽しそうに話してるの見て、思ったんです。それぞれ違った魅力があって、素敵な人たちだなって…」
「あら~、嬉しい事言ってくれるじゃん」
「いや、別に…。だから、みなさんにはずっと仲良くいてもらいたいです。」
俺は素直な気持ちを話してくれた宮岸さんに触発されてか、自分自身も思っていることがすんなり言葉に出た。
「はぁ…こんな優しくていい男の子を前に醜い争い繰り広げなんて、あの女二人もつくづく馬鹿よねぇ~!」
宮岸さんは冗談混じりで笑いながら言った。
「さて、じゃあさ…慰めてあげたんだから、何かお礼してもらおっかな~」
宮岸さんがなにやらニコニコしながら俺に言った。
「あ、はい。じゃあよかったらご飯でもご馳走させてもらえますか?」
「う~ん…それよりね…」
宮岸さんがなにやらもったいぶっていた。
「ねっ…今からホテル行って、エッチしよっか!それが一番嬉しいわね」
俺は凍り付いた…。
「ちょっと!宮岸さん!いつもぶしつけ過ぎですって…勘弁してくださいよぉ…」
最後はやはり、宮岸さん節が炸裂してしまったのであった…。
しかし、俺の話はまだ終わっていなかった。
どうしても聞いておきたい事があったのだ…。
「宮岸さん…さっきあの二人の言い合いで、男といざこざがどうのこうのって…。あれ、どういう事なんですか?」
俺は勇気を振り絞り、宮岸さんに尋ねた。
「……言いたくないな」
宮岸さんは本当にツラそうな顔をして言った。
「俺の知らない智美さんの事実があるみたいな事、東条さんに言われました…。俺、どんな事でも受け止める覚悟はできてるんで…」
俺がそう言うと、宮岸さんは大きく息をはき、俺を見た。
「じゃあ条件つきね…。私が何を話しても、智美を避けたりとか智美の前からいなくなったりとかしないって約束する?」
俺は恐怖すら感じていたが、それを断ち切るように力強く頷いた。
「…智美にはね…婚約者がいるの」
目の前が真っ暗になるとはこの事なのだろうか…。
俺は衝撃のあまり、意識を失いそうになった…。
「今も婚約者って呼べるのかどうかわからないけど…、まぁそういう男がいるのよ」
宮岸さんは俺の顔を見ず、ただ外をぼぉーっと眺めながら話を続けた。
「その男ってのは私たちとも顔見知りでね。大学の時の同期なのよ。いろいろあって、なぜか智美と付き合う事になっちゃってね。まぁそこそこ真面目なやつだったから、智美にはお似合いかなって、みんなで思ってた」
俺の知らない事実がどんどん明らかになってゆく…。
「カタブツで奥手な智美にとうとう彼氏ができたって感じで、結構みんなで祝福モードだったのよ。でもね…」
宮岸さんは少し言葉に詰まった…。
「彼、悪い友達に誘われたのがきっかけで、とんでもないスロット狂いになっちゃたの…。酷い時には智美の財布からお金むしり取るようにもなったらしいわ」
「それで…当時、お互いの親も合意の上で婚約までしてたんだけど、智美が堪えられなくなってね…。もちろん私達も別れる事を勧めたよ。でも…彼…ていうかあの男、智美を離さなかったのよ」
あまりにむごい話に、俺は耳を塞ぎたくなった。
「私達が見抜いてやれなかったのよ…。あの男の異常さをね…。で、智美は逃げるみたいにこっそり引っ越しをして、一からスタートって気持ちで今の店始めたって感じ…。」
全ての糸が繋がった気がした。
店にいる時、智美さんが時折電話に出て、奥に引っ込む事があった。
そしてしばらくして、何か無性に疲れたような顔をして戻ってきた。
俺は何かあったのか聞いたが、ただいつものように笑って、
「ううん。なんでもないよ。ありがとう…」
と言うばかりだった。
きっとあの電話は、その男からだったのだろう。
事情を知らない同級生の者なら、智美さんの連絡先を教えたりしてしまう可能性はある。
そうやってその男は再び智美さんに近づこうとした…。
目的は金なのか…それとも…。
考えるだけで忌々しい…。
とにかく、俺は智美さんの秘密を知ってしまった。
しかし、話を聞くうちに俺は妙な安心感を抱いていた。
最初は「婚約者がいる」という言葉に衝撃は受けたが、それは今となっては形だけであり、本当に智美さんの心を捧げた男はもう今はいない…。
どうなるかはわからなかったが、俺ができる事なら智美さんを癒し、そして守ってあげたいと強く願う事ができた。
「これでもう、隠してる事はない…。大丈夫?」
宮岸さんは心配そうに言ってくれた。
「はい…。俺、ずっと智美さんの側にいたいと思います…。望んでもらえるなら…」
俺は本気だった…。
そしてこの時、俺の智美さんへの気持ちは「憧れている」から「愛している」に変わった。
俺の気持ちが伝わったのか、宮岸さんはニッコリ笑って俺の頬に手を当てた。
「ふふっ…○○(東条さん)が、ムキになって君を智美から引き離そうとした気持ち…少しわかるわね…。」
そう言って宮岸さんは、ドキッっとしてしまうようなせつない表情を見せた。
「智美がダメなら私のとこに来なさいね…。いっぱい可愛がってあげるんだからね…」
「あぁ、その…東条さんにも…そういう事言われました…」
俺がおずおずとそう言うと、宮岸さんが堪えきれないといった感じで吹き出した。
「あははっ!私たちダメよねぇ~。もう、恥ずかしくなっちゃうわよ~」
そう言うと宮岸さんは俺の手をスッと握り、
「智美の事…大事にしてあげてね。私達の大切な親友だから…」
と呟いた。
俺はじっと宮岸さんの目を見て、
「はい…」
と言った。
「じゃあ今から智美とする前の予行練習いっとこうか!ほら、私に襲い掛かっていいよ…」
宮岸さんは結局、宮岸さんのままだった…。
数分後、俺は再び宮岸さんに連れられて店に戻ってきた。
宮岸さんとは外で別れ、俺は一人で店のドアを恐る恐る開けた。
先程の激しい怒声は跡形もなく消え、店の中は静まり返っていた。
そして、智美さんがポツンとカウンター席に座って呆然としていた。
ドアの開く音で、智美さんはビクッとして、俺の方を見た。
「……おかえりなさい」
智美さんがバツの悪そうな様子で言った。
「東条さん、帰ったんですね」
智美さんは無言で頷いた。
二人の間に苦痛とも言える沈黙が流れた。
しかし、それではらちがあかない。
俺は一息つくためにコーヒーを入れてこようと立ち上がった。
立ち上がって一歩踏み出した瞬間、俺の身体は動かなくなった。
何者かが、俺の後ろから掴みかかったのだ。
しかし、その時店にいるのは俺と智美さんだけ。
やがて、背中に柔らかい感触を感じ、それが智美さんだと分かった。
「どこ行くの…?」
智美さんが消え入りそうな声で言った。
「いや…あ…コーヒー…、入れてこようって…思って」
「後にして…」
突然の事で、俺の全身は硬直し、口が渇き、動悸が激しくなる…。
「…さっきはごめんなさいね。あんなとこ見せちゃって…」
「いえ…気にしてないです…」
「私ね…昔からずっと一人だった。両親はちゃんといたけど、二人とも共働きで、一緒にお出かけしたりとか、一緒に長い時間過ごしたりとか…全然なかったの…」
智美さんの身体の震えが伝わってきていた。
「兄弟とかもいなくてね。一緒に過ごせる家族にずっと憧れてたの…。○○君がここに来てくれるようになって、私本当に弟ができたみたいな気持ちになって、なんだか夢みたいだった…」
智美さんはだんだん話すうちに涙声になっていった…。
「本当に勝手な気持ちだってわかってるの…。でも、○○(東条さん)と一緒にいたっていうのを聞いて、なんだか言葉にならないくらい不安になった…。悔しい気持ちになった…」
もうそれ以上、智美さんに辛い言葉を吐かせる気にはなれなかった。
俺は腰に巻き付く智美さんの手をほどき、智美さんに向き直った。
目にはたくさん涙が溜まっていた。
「智美さん…。俺は地元から出てきて、何かと生活に苦労してました。そんな時に智美さんに出会えて、本当にラッキーだと思いました。俺に親切にしてくれて、あんな温かい気持ちになったのは初めてでしたよ」
智美さんは俺の目をジッと見ていた。
「俺なんかがいるだけで、智美さんが寂しくならないんなら、俺はずっと智美さんの側にいたいです。俺も、たった一人で暮らしてるのに、智美さんと毎日会ってたおかげで、一度も寂しくなった事なんてありませんでしたから…」
「ありがとう…○○君…ありがとう…」
智美さんは俺に身体を寄り掛からせた。
そして、抱きしめてきた。
初めて智美さんの体温を、匂いを、吐息を感じた…。
しかし、その智美さんが俺に抱く気持ちは全く俺とは逆の物であることに、俺は気付いていた。
智美さんにとって俺は「一人の男」ではなく、「弟のような愛しい存在」である事実が、俺に重くのしかかってきた…。
俺は智美さんを胸に抱きながら、ふと窓から外を見た。
そして見覚えのある車が、俺の視線から逃げるように走り去った。
東条さんの車だった…。
その日の夜、どうしてもと言うので、俺は智美さんの家に行くことになった。
今まで何度も智美さんの部屋にお邪魔した事はあったが、その時はなぜか気分的に違う気持ちになっていた。
部屋に上がった後も、智美さんはなんとも上機嫌で、俺の身体に触れる事が多かった。
まるで小さな女の子が弟を可愛がるような態度で、俺に接してきた。
「ねぇ、ご飯食べよ?あり合わせの物でだけど、美味しいの作ってあげる!」
智美さんが俺の腕を掴んで、甘えるように言ってきた。
「はい…。あ、俺もなんか手伝いますよ」
「いいのよ。座って待ってなさい。それと…一つ約束してほしいんだけど…」
「なんですか…?」
「二人きりの時は、もっと家族みたいに気楽に話し掛けてよ。弟が姉に、です・ますとかで話すの変でしょ?」
「それは…無理ですよぉ…」
「ダメよ。約束して」
智美さんが真剣な顔をした。
「…わかりました」
俺はしぶしぶ承諾した。
すると智美さんは嬉しそうに笑って、また俺に抱きついた。
そして楽しそうに台所の方に歩いていった。
智美さんにこんな一面があるとは、俺は全く気付かなかった。
まるで別人のようだった。
確かに智美さんが喜ぶ顔を見られると俺も嬉しい。
だが、何か違和感を感じていた。
しかし、その時はそれを気にしないようにした。
ただ智美さんと過ごす時間を、大切にしようと思った…。
食事の後、智美さんと二人でまったりテレビを見ていた。
その間も、智美さんは俺にぴったりくっついていた。
まるで恋人同士だ…。
しかし、実状はそんな物とは程遠い…。
「ねぇ、○○君」
ふと智美さんが俺の顔を見て話し掛けてきた。
「はい?」
俺はテレビに目を向けたまま返事をした。
「一回でいいから、私のこと、『お姉ちゃん』って呼んでくれないかな…?」
俺は思わず飛び上がってしまった。
「あの…勘弁してもらえませんか…?」
「お願いよ。一回だけ…ダメかな?」
あの智美さんが、俺におねだりをするような目を向けた。
もしこれが違うおねだりなら…そう考えただけでも、胸が熱くなる。
しかし…この状況は…。
何かを期待するように嬉しそうに笑う智美さんとは逆に、俺は困惑するばかりだった。
「じゃっ…じゃあ……。お…お姉ちゃん…。」
「なに?」
「いや…何って…。あぁ~もう無理ですって!」
俺が耐え切れずにそう言うと、智美さんは大笑いした。
「ごめんごめん!ふふっ…ほんと…優しいね…」
智美さんは本当に嬉しそうに笑い、俺の肩に頭をポンっと乗せた。
時折、智美さんの胸が触れたりし、俺の『男としての本能』の部分が何度も顔を出しかけたが、智美さんの屈託のない笑顔を見るたびに、それらは一瞬にして萎んでいった。
俺は日付が変わる頃まで智美さんの部屋で過ごし、何事もなく帰宅した。
次の日、俺はなんだか恥ずかしい気分で出勤した。
いつものように、店の外から智美さんが開店の準備をしているのが見えた。
「おはようございます…」
俺は少し照れ臭い気持ちで挨拶をした。
「おはよう。昨日は遅くまでごめんなさいね。ほら、早く準備してテーブル拭いていって」
いつもの智美さんだった…。
昨夜の甘えんぼうの智美さんはそこにはいなかった。
俺はしばらくあっけにとられたが、すぐに気を取り戻し、エプロンをかけて開店準備にかかった。
その日の朝から、またいつもの日常が始まった。
しかし二人きりになった時の智美さんは、やはり甘えんぼうだった。
ただ、店を開けている時は、たとえ二人きりになっても絶対に馴れ馴れしい態度はとらなかった。
そういう智美さんのけじめの付け方が、俺は何気に好きだった。
でも…一つだけ、以前と変わった事があった…。
東条さんが全く店に来てくれなくなったのだ…。
以前は毎日のように店に来て、俺に色っぽい笑顔を見せてくれて、冗談まじりに誘惑してくれる…。
俺は智美さんと初めて抱き合ったあの日、窓から見えた東条さんの車が走り去る光景が頭から離れていなかった。
智美さんにも、あれから東条さんとは和解できたのか聞いていなかった。
何か腫れ物に触るような気がしたからだ…。
東条さんが姿を見せなくなって、すでに二週間近くが過ぎようとしていた。
店を閉めてからケータイを見ると、東条さんからの着信があった。
俺は智美さんに
「友達から急に連絡があったから、今日はすぐ帰ります」
と言って、急いで帰宅した。
家に着き、俺はすぐに東条さんに電話をかけた。
すぐに電話に出てくれた東条さんは
「お話したいから、近くまで車で行くわ」
と言った。
俺は時間を見計らってから、近くの公園まで歩いていき、東条さんを待った。
数分してから、東条さんはやってきた。
俺は一礼して、東条さんの車に乗り込んだ。
「ごめんね。急に呼び出したりして…」
「いえ、大丈夫です」
「…元気にしてた?」
俺はただ頷いた。
「…○○(宮岸さん)から智美の事、聞いたんだって?どう思った?」
「ただ…智美さんを…守りたいと思いました」
「そっか…。僕らしい感想ね。で、その後抱き合ったわけね?」
俺はドキッとした。やはりあの時、東条さんは見ていたのだ…。
「智美と…したの?」
俺は首を横に振った。
「智美さんに言われたんです…。『本当の弟みたいに思ってる』って…。結局俺は、智美さんにとって『一人の男』にはなれませんでした…」
やはり改めて考えてみれば、辛い事だった…。
以前にも増して智美さんとは親密になった…。
しかし、それは俺が求める方向性ではない…。
俺は東条さんの静かな口調に心をえぐられ、目を伏せてしまった…。
「智美にそこまで言われて、僕はまだ想い通せるの?」
俺は答えにつまり、無言になった。
「前にも言ったけど、私は智美とは違うわ。○○君の事が、ただ純粋に欲しいの。心が手に入らないなら、身体だけでもいい…。私をはけ口にしてもいいのよ?」
東条さんはとんでもない事を口にした。
「やめてください!なんて事言うんですか!東条さんをそんな風に扱う事なんてできるわけないですよ!」
俺は東条さんのあまりの言葉に語気が荒くなってしまった。
「じゃあ…なんでそうやって…私を大事にしてくれるのよぉ…。なんで私の物にならないのに、嫌いにならせてくれないのよぉ…」
東条さんはせきが切れたように泣き始めた。
いつもどこか自信たっぷりで、高飛車な雰囲気で満ちている東条さんが、弱々しい声で泣いていた。
その時、俺の心の中で何かが弾け飛ぶ音がした…。
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今まで必死で守ろうとしてきた、少し気を緩めれば壊れてしまう大事な何かが崩壊した音…。
もはやそれを止める力は、俺には残されていなかった。
智美さんへの想いは叶わないと知った時から、もう俺の気持ちはズタボロだったのかもしれない…。
俺の手は自然と、東条さんの手へと重ねられた…。
東条さんはハッとして俺の顔を見つめ、ニッコリ笑って俺に唇を重ねてきた。
すごい勢いで口の中に東条さんの舌がねじ込まれた。
俺も必死で応えようとして舌を絡めようとするが、全く歯がたたなかった。
いやらしい音が鳴るくらい舌を絡ませ合い、互いの唇を離した時、混ざり合った唾液が糸を引いた。
俺の目の前で嬉しそうに笑って舌なめずりする東条さんの表情を見ただけで、俺の心臓は一際大きく高鳴った。
「途中でやめるのつらいけど…ここじゃ少し居心地が悪いわ…。僕の部屋、お邪魔していいかしら…?」
「は…はい…。狭いとこですけど…」
東条さんはすぐに車を走らせ、俺の住むハイツへ向かった。
俺の部屋に着くなり、東条さんはもう歯止めがきかないといった感じで、俺を床に押し倒すようにして再びキスをしてきた。
そして上着を脱ぎ捨て、俺の手首を掴み、自分の胸へと導いた。
俺は震える手で、白いブラウスの上から東条さんの胸を触った。
「はぁ…ん…。やっと…触ってくれたわね…。気持ちいい…最高よ…」
そう言って東条さんは小さな喘ぎ声を出した。
高校生の頃に付き合っていた彼女としか経験がなかった俺は、東条さんの魅力的な身体に完全に溺れてしまう恐怖すら感じた。
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