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俺は研究室にしばらくのご無沙汰を詫び、もう一度仲間に加えていただいた。
道場でも、熱の入った稽古を再開した。
身体も頭もこの一月余りにすっかりなまっていた。
道場でMちゃんにも会えて嬉しかった。
彼女と久し振りに熱の入った稽古をした。
稽古の時は、彼女は真剣な眼差しで俺に対していたが、帰りの時など、どことなくよそよそしかった。
おかしいなとは思ったが、さして深く考えなかった。
それよりも、勉強のこと、稽古の技術的なことなどが頭を占めていた。
俺はエゴイストになっていた。
が、良い意味でのエゴイストになっていたと思う。
長い間書き込んできたこのスレッドだったが、間も無く終わりに近づいてきた。
俺は今、自室のデスクの上で、ibookを使ってこのコメントを書き込んでいる。
外は雷雨だ。
台所では、家内が夕餉の支度をしている。
長女は、山のような宿題に四苦八苦し、長男は部活から帰り、腹が減ったと家内に訴えている。
次女、次男、三女はトランプをしている。
どこにでもある平凡な家庭。
だが、あの時の勝負に俺がもし勝っていたなら、全く違う人生が開けていただろう。
結果を先に述べよう。
Jとの勝負に俺は負けた。
俺は自爆したのだった。
今、Jは政府機関を辞め、民間企業で働いている。
順調に出世しているという。
カナダでは、政府機関を辞めたり、また戻ったりということが頻繁に起きるらしい。
Jは日本に造詣が深い。
また、政府機関で働き、表舞台に登場することがあるかもしれない。
彼にはカナダと日本の掛け橋として、大いに働いてもらいたいと思う。
それだけの力量のある人物だ。
彼を紹介する文が目に浮かぶ。
日本に深い理解を持ち、古武道を修業し、日本人の妻を持つJ氏は・・・・。
MちゃんはJの妻となり、今カナダで暮らしている。
Mちゃんとのことを夢で見ることがある。
いつも物悲しい夢に終わる。
目を覚ますと、
「夢だったか」
と思う。
俺の隣には妻が寝ている。
下の二人の子供も、同じ部屋で眠っている。
果たしておれは幸福なのだろうか。
そうだ、恐らく幸福なのだ。
チルチルミチルの青い鳥ではないが、青い鳥は自宅で飼われているのだ。
それに気付かないだけ。
それでも、Mちゃんとの夢を反芻し、どうしようもない切なさ、哀しみを覚えるのを止めることができない。
今、彼女はカナダのどこで何をしているのだろうか。
彼女も、今の俺のように俺のことを思い出すことがあるのだろうか?
Sさんはどうしているだろうか。
あれから二十六年が経っている。
彼女は六十三歳になっているはずだ。
俺は再びMちゃんとデートをするようになった。
といっても、週に一度会えるかどうかだ。
俺は勉強と稽古に馬力を入れた。
時間は幾らあっても足りなかった。
マクドナルドでのバイトを辞めた俺は、バイト料が入ってこなくなっていた。
小遣いはほとんど無い。
両親には模擬試験やら、色々迷惑をかけている。
その上、弟の通う獣医学部は、弟の学年から大学院修士を出なければならなくなった。
金食い虫である。
自然、デートも公園を散歩したり、喫茶店でお喋りをするくらいになっていた。
ホテルに行こうという気にはなれなかった。
Sさんと別れて、Mちゃんを大切に思う気持ちが強くなり、そうなると不思議と抱けなくなる。
Mちゃんのご両親とも会った。
しっかりしたご家庭で育てられたことがはっきり解った。
家庭環境というのは、確かに大切だ。
立派な、常識を弁えたご両親だった。
Mちゃんについて書かせて欲しい。
読み苦しかったら申し訳ない。
彼女は二十歳にしては、大人びた雰囲気を持っていた。
古武道を稽古しようとするところなど、余程普通の子達と違っていた。
彼女は読書家だったので、俺の師匠の書いた本を読んで感銘を受け、入門したのだった。
今は甲野先生などを通じて古武道が見直されているが、当時は「空手馬鹿一代」の時代で、古武道など見向きもされなかった。
それでも、古武道には日本の本質的なものがあると判断した外人など、入門してきていた。
二十歳でこの門を叩くのだから、それだけでも大したものだった。
彼女は可愛かった。
入門してきたとき、俺は初心者クラスの指導を行っていた。
彼女を俺の女房にしようと、一目見て俺は心に思ったのだった。
俺は、あれからずっと同じ道場にいる。
途中海外勤務が長かったので、ブランクは大きいが、それでも入門してくる女の子を見ることができる。
俺が見るに、彼女ほどの子、技術ではなく、性格や素直さ、熱心さにおいて彼女ほどの子を未だに見ない。
Jもそれに気付いていた。
彼は俺を先輩として立ててくれていたが、恋愛のバトルにおいては平等だと思っていたのだろう。
もちろん、その通りだ。
そして、Jは俺とMちゃんの関係は、割り込むことができないものと思っていたらしい。
が、俺にはSさんという弱みがあった。
俺が腐り始めた時期を見て、これならばとMちゃんに言い寄り始めたのだ。
的確な状況判断だ。
俺はまんまとしてやられた。
当時、Mちゃんの心は揺れていたようだ。
俺も再び気合が入り始めていたし、Jはカナダ人だ。
肉体関係は、俺とだけだった。
俺は、彼女とJとの仲に、少しづつだが気付きだした。
Mちゃんは以前のように俺に全てをさらけ出すような雰囲気でなくなってきていた。
心にバリヤーがあるというか、たとえば、俺が彼女と肩を組むと、以前は俺の肩に頬をもたれかけてきて、幸福そうにしていたものだったが、そんな事が無くなっていた。
ある時、Mちゃんの口からJとの事を聞いた。
そして、迷っているとも聞いた。
Mちゃんが奪われようとしている。
おれは、冷静ではいられなかった。
薄々解っていたことだったが、やはり本人の口から聞くのは辛い。
どうしたら良いだろうか。
今の俺ならば、マメにマメに連絡を取り、言葉をかけ、話を聞き、心を此方につなぎ止める。
愛情とは、相手のために時間を使い、心を使い、労力を使うことだ。
相手を理解し、相手を受け入れることだと思う。
だが、俺は自爆した。
我ながら馬鹿だったと思う。
SさんとのことをMちゃんに話したのだ。
何故話したのかは、今となっては定かに思い出せない。
秘密を持たないことが、相手に対する誠意だと俺は勘違いしていたのだろう。
大馬鹿者の考え方だ。
これは単なる話す側の自己満足で、聞かされるほうは良い迷惑だ。
秘密を守り、相手に伝えず、死ぬまで秘しておくのが愛情というものだと今では思う。
若い方がこの文章を読んでおられるかもしれない。
このことだけは覚えておいて損はない。
秘密は守り通して、墓場まで持って行くことだ。
それこそが、相手に対する愛情なのだと思う。
俺は洗いざらいSさんとのことをMちゃんに話した。
そして、MちゃんのためにSさんとの関係を切ったこと等を話した。
Mちゃんは青ざめていた。
彼女は
「話してくれてありがとう」
とは言ったが、その時彼女の心は俺を離れたのだった。
それから数日後、MちゃんはJと結ばれた。
それまでは、Jを拒み続けていたらしいのに・・・。
次の週、Mちゃんと俺は会った。
場所はサンシャインの地下の喫茶店だった。
そこで、俺はMちゃんからJに付いて行くことにしたと伝えられた。
俺は愚かにも、あれだけの秘密を話したのだから、Mちゃんは意気に感じて俺を選んでくれるだろうと勝手に想像していたのだった。
それを聞いてMちゃんの心がどんなに傷ついたか。
Mちゃんを抱いていた同時期にSさんを抱いていた俺という存在を、彼女は許せなかったのだろう。
無理もない。
未だ二十歳の純情な子だ。
今の俺はMちゃんに心から済まないと思う。
が、その時は俺は動揺するだけだった。
外見は落ち着いて見せていたが、トイレに行くと座を立って、公衆電話で友人に電話した。
俺は、友人に話を聞いてもらいたかった。
話しながら、俺は泣きだしてしまった。
俺の手元に数枚のMちゃんの写真がある。
屈託の無い笑顔で写っている。
実は、この写真は彼女がその時持っていたもので、お母さんが撮ってくれたものだった。
俺は、彼女にこの写真を見せてもらい、せがんで数枚を貰ったのだった。
彼女は最初断ったのだが、俺の真剣な目を見て頷いた。
ここまで書いて思い出した。
Sさんも俺と一緒の写真を、別れの時持って帰ったのだった。
奇しくも同じ行動を俺もSさんも取っていたことになる。
そして、Sさんが写真を見て泣きだした気持ちが今の俺には痛いほど解る。
当時の俺も同じ気持ちだったから。
Mちゃんに最後の説得をした俺は、遂にそれが無駄なあがきだと知った。
その後の記憶が、俺には無い。
思い出そうとしても、思い出せない。
日記にも詳しい記述が無い。
Sさんとの時のことは、かなり思い出せたのだが、思い出せないということは、ショックが大きかったということだろう。
以上でほとんど終わりました。
以下は簡単な事後報告になります。
俺は、四年生の時の短答式試験に合格した。
が、論文で不合格になった。
浪人する余裕は家にはなかった。
弟の学費が大きく、俺は働く必要があった。
幾つかの会社の内定を取った。
銀行、証券、メーカー、運輸と節操の無い内定の取り方だった。
銀行、証券は断った。
友人達からは惜しがられたけれど、内定を取った銀行は後に吸収合併され、証券会社は社会を揺るがす倒産劇を演じた。
運輸の会社に入社した。
俺は海外を希望した。
そして、会社はその通りに俺を使ってくれた。
海外では古武道の稽古が非常に役に立った。
日本人として掴んでいて損の無い教養である。
結婚は三十歳の時だった。
尊敬する方から紹介された女性だった。
俺は面食いだったが、彼女は不細工で、真ん丸顔で、牛乳瓶の底のようなメガネをかけていた。
二十六歳だった。
六人兄弟の長女で、貧乏牧師の娘だった。
写真だけで断ろうと思ったが、紹介してくださった方の手前もあり会うだけ会ってみた。
化粧が下手で、赤くなる癖がある彼女は、見るからにださかった。
が、話してゆくうちにその聡明さに俺は引かれるようになった。
俺が尊敬する人も、彼女ならばという太鼓判を押してくれていたし、彼女も俺を気に入ってくれた。
結婚して、つくづく良かったと思った。
ブスは三日見れば慣れるというが、実際その通りだと思う。
五人の子宝に恵まれ、苦労も多いが充実した人生を送ってきた。
それでも、思い出す。
激動の青春時代のことを。
Sさん、Mちゃん、そして多くの友人達のことを。
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もし、あの時このようにしていれば、ああしていればと地団駄踏むような記憶が多い。
人生の分かれ道が幾つもあり、一方の道を決断してきた。
それが正しかったのかどうかは、今も解らない。
Sさんと一緒になっていたら、どうなっていただろうか。
六十三歳の老婆と一緒に暮らしていられただろうか。
Mちゃんとだったらどうだったろうか。
しかし、それは考えても栓の無いことだ。
Mちゃんと別れた後も、幾つもの女性関係があったが、俺が学んだことはSさん、Mちゃん、妻からが一番多い。
また、これ以上引き伸ばしても意味がないだろうし、Mちゃんとの最後は、思い出すのが辛く簡略な記述にせざるを得なかった。
「何を書いているの?」
さっき女房がディスプレーを覗き込みそうになった。
俺はすぐにデータを消した。
ここで書かれたことは、女房子供も知らない。
誰も知らないことを、書かせていただいた。
死ぬまで黙っていなければならない内容を書き込めたことで、心が軽くなった気分だ。
拙い文章で、推敲も経ていない、無駄な繰り返しが多かったりした文章でしたが、皆様からご支援いただけましたこと心より感謝申し上げます。
途中からスレタイからも外れる部分が多かったですが、ご容赦いただききありがとうございました。
皆様のご健勝をお祈り申し上げ、これで終わらせていただきます。
どうもありがとうございました。
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