大勢の人が新幹線から降りて、流れるように改札口を通過していきました
その流れが見える片隅で、私はあなたの姿を探し求めました
見あたりません…
それもそのはずです。あれから34年も経っているのですから…
二十三歳のあなたの顔は浮かんでも、五十七歳のあなたの顔は分からないはずです…
人並みが過ぎて改札口を通る人もなくなりました
待合室を見渡しても、それらしき姿は見あたりませんでした
「片手に新聞を持っていますから…」と電話で予め聞いていましたのに…
新聞を手にしたそれらしき人は見当りません
諦めて帰ろう…と思ったその時、売店の前に立っている人に目がとまりました
その人は紳士で、私の記憶にある二十三歳青年の面影ではありませんでした
その人に向かって歩くと、その人も気がついたのか、私の方に向かってきます
近づくとその人は
「失礼ですが、山下睦巳さんですか…?」と
私の旧姓をフルネームで呼びかけてくださいました
どちらから声かけるともなく、自然の流れで挨拶を交わしていました
34年ぶりに見るあなたの姿…
それは立派な熟年紳士で、
あの青年時代の面影は蘇りませんでした
あなたの予定も聞かずに私は
「ラベンダーでも見に行きましょうか…」と云ったらあなたは
「いや暑いから、あのホテルの喫茶で話しましょう…」と云われ、
駅前の三十六階建「オリエンタルホテル」、
一階の「ティー.ラウンジ」に足は向かっていました
お茶を飲みながら、阪神淡路大震災の模様を聞かれたので、
その当時の惨状のすべてをお話ししました
話しているうちに、顔のどこかに、多少、当時の面影が残っていました
「食事をしましょうか…」と誘ってくださいました
料亭「生野」は三十五階で、エレベータに乗り込んだら誰もいなく、二人だけでした
ただ黙って、うつむいて、移り変わる外の街景色を眺めていました
あなたは会席料理を注文してくださいました
その日は私の誕生日でした
あなたはこの日を覚えておられたのでしょう…
だからこそ、あのとき震災見舞いといってこの日を選んでくださったのでしょう…
三十五階から見る神戸の街は震災の跡形もなく綺麗に復興していて、
高層から見降ろす街は、手の届くほんの近くに見えました。
積もる話に花が咲いて、まったく時間を忘れていて、すでに二時間も経っていたのに、
会席料理の終りが告げられるまで、気が付きませんでした
あなたは三十六階の「スカイ.ラウンジ」へ誘ってくださいました
三十五階を出て三十六階に往くとき、
どうしたことか、エレベータは下に下がってしまいました
「L」に着いたエレベータから、三十六階のボタンを押すと
エレベータは再び昇りはじめました。
エレベータには誰もいなく、二人だけでした
あなたは私の肩にさりげなく手をかけ、抱き寄せようとされましたが
女の本能でしょうか、私はすんなりと身をかわしていました
エレベータが止まったので降りたら、そこは先程の三十五階、
ラウンジは三十六階だのに…
「階段を上りましょう…」あなたは云われました
仕方なく階段を上っていくと…
階段の踊り場であなたは立ち止まり、
私を振り向いて何も言わずに肩に手を掛けられました
またも女性本能…、防御心…といおうか、私は黙ってその手をそっと払いのけていました
あなたはそれ以上何もせずにさっと手を引かれました…
拒まず委せて抱きしめられれば良かったのに…と後になって後悔しました
あなたが話題の中に、そんな雰囲気を醸し出してくださっていれば、
そんな気持ちにもなって、受け入れていたのかも…?
あなたは私を抱き寄せたくて階段を使ったのでしょうに…
そして私があなたの抱擁を受け入れていれば、
あなたは、ホテルのルームに誘う気だったのかも知れません
そうであるなら、あなたには男としての強引さが、今いちあって欲しかった…?
喫茶はあいにく満席で、席が空くまで入り口の薄暗いロビー席で、
二人は並んで座り、席の空くのを待ちました
先程のこともあって、お互い黙ったまま…
そんな時でした、
あなたの手が再び私の太腿に触れ、
わたしは、膨らんだ柔らい太腿に男を感じました…が……?
場所が場所だけに、その時も私は手を払い除けていました
あなたはその時も、さっと手を引かれました
知らぬふりして、あなたのするように委せてあげれば良かったのに…
「スカイ・ラウンジ」で昔話をしながら、
あなたは、若かったあの頃、私を慕いつづけた気持ちの全てを
話してくださいました
またと会うこともないのかもしれません、
私も、その頃の気持ちの全てを打ち明けていましたが、そのことで悔いは残りません
あなたは「あの頃は二人とも純だったね…」といってくださった
本当に二人とも純情そのものでした
地下の商店街を肩を並べて歩くと、愛おしさが胸にせまってきました。
このまま、もっと、もっと、一緒にいたい…
駅の待合室に腰を掛け、
あなたの地元名産「もみじまんじゅう」をお土産に頂き、
差し出されたあなたの手を握って握手…
二回も握手をして、あなたは改札口を出ていかれました
後振り返り、手を挙げて別れの挨拶をするあなたに、私も手を振り…
ホームに上るエスカレータで再び振返るあなたに、もう一度手を振って…
ついに、あなたの姿が見えなくなりました
34年ぶりに会ったあなたの姿が…
エレべータで抱きしめられようとした時、それを拒んでいた私…
あのとき素直に抱かれば良かったのに…
今になって後悔しています
抱かれていればその後の展開は変わっていたのでしょう…
街を見下ろすあの高級ホテルの一室で、ゆっくり二人の愛の時間が過ごせたろうに…
あなたも、それを夢見て、あのホテルに足を運んだのでしょう…
例え、あなたに抱かれ、女のすべてを与えたとしても、所詮、五十代の男と女…
いまさら家庭を壊すようなこともしないのに…
主人を裏切ったとしても、たった一度のあやまちで終わっていただろうに…
あなたにも勇気がなかったし、
私にも、あなたの誘いを素直に受ける勇気がなかったのです…
三十四年前、あなたは経済課に勤める二十一歳のウブな私に好意を持っておられることは、
あなたが私を見つめるまなざしや態度で分かっていました
だが、あなたはそれ以上私を求めてこなかったし、私を慕う気持ちも伝えてこなかった…
あなたが一言、それらしい言葉を云ってくださっておられれば、
私の人生は変わっていたのかも知れません
そして、あなたと一緒に歩んでいたのでしょう…
また私もいけなかったのです、
あなたの真意を耳にしないまま、親の薦める縁談に傾いていました
あなたには「この三月末で退職します」と云っただけで,
その理由は云いませんでした…
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「親から結婚を薦められています…」と、はっきり云って、
あなたの気持ちを確かめるべきでした
あなたは「そうですか…」とだけ云われ、
「最後に映画をつき合ってください…」といわれました
あの映画は、仲代達也主演の「人間の条件」でした…
映画が終わって月が照らす夜の一本道を二人で歩いて、
あなたは、私の家の近くまで送ってくださいました
「さようなら…」
こみ上げる胸を押さえ、漸くその一言だけ私は云いました
それがあなたとの短いつきあいの別れとなったのです
あなたはほのかに照らす街灯の下で、去りゆく私の後ろ姿を見つめていてくださいました
二十三歳の青年と二十一歳の娘が、手も握らず…、
まして抱かれて口づけすることもなく…、清らかな若い青春の恋でした
あなたと別れたその夜、私は主人に抱かれました。
主人に愛されながら、
あなたに愛されていると妄想して、乱れました
あなたに、もう一度会いたい…
今度会ったときは、あなたに私のすべてを任せ、すべてをあげます…
–END–
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